米津玄師『灰色と青』は「子どもから大人への道のり」についての歌?歌詞の意味を徹底調査!

灰色と青 歌詞

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米津玄師の『灰色と青』。

人気俳優の菅田将暉さんとのコラボ曲で、かなりの話題を呼んだ曲ですよね。

今回は、米津玄師『灰色と青』の歌詞の意味について調べてみました〜!

米津玄師『灰色と青』テーマは「子どもから大人への道のり」

管理人は『灰色と青』を、

『灰色』のようなくすんだ気持ちを持つ大人と、

『青』のように明るい気持ちを持つ子どもを表していて、

「何も知らない無垢な子どもから、くすんだ気持ちばかり持ってしまう大人への道のり」

を歌ったものではないかと推察しました。

ということでここからは、

管理人が解釈した米津玄師『灰色と青』の歌詞の意味をご紹介していきます♪

米津玄師『灰色と青』1番

まずは1番の歌詞の意味からみていきましょう。

「袖丈が覚束ない夏の終わり

明け方の電車に揺られて思い出した 懐かしいあの風景

たくさんの遠回りを繰り返して

同じような街並みがただ通り過ぎた 窓に僕が映ってる」

出だしのフレーズの「袖丈がおぼつかない夏の終わり」というのは、

学生の制服がまだぶかぶかの時代を彷彿とさせますよね。

「明け方の電車に揺られて思い出した 懐かしいあの風景」

この部分は、大人になった今の情景を歌っています。

明け方の電車というのは、始発のことを示していて、

始発の電車に乗ってどこかへ向かっているのでしょう。

そのあと続く、

「君は今もあの頃みたいにいるのだろうか

ひしゃげて曲がったあの自転車で走り回った

馬鹿ばかしい綱渡り 膝に滲んだ血

今はなんだかひどく虚しい」

この部分では、子どものころに一緒にいた『君』とのシーンを回想しています。

何度も転んで曲がってしまった自転車で走り回ったり、

決して簡単ではない綱渡りで遊んで転んだり。

そういった、無邪気なころを思い出しては、

今の自分との違いを思い知って虚しくなるのでないでしょうか。

米津玄師『灰色と青』1番サビ

続いて、サビの歌詞をみていきましょう。

「どれだけ背丈が変わろうとも

変わらない何かがありますように

くだらない面影に励まされ 今も歌う」

「どれだけ背丈が変わろうとも」というのは、

「どれだけ大人になろうとも」という意味ではないでしょうか。

どれだけ大人になっても、変わらない思いがあると信じている。

君と過ごした昔の面影を大事に、今でもその気持ちを持っているという意味だと推測できます。

米津玄師『灰色と青』2番

2番の歌詞をみていきます。

「忙しなく街を走るタクシーに

ぼんやりと背負われたままくしゃみをした 窓の外を眺める

心から震えたあの瞬間に

もう一度出会えたらいいと強く思う 忘れることはないんだ」

このフレーズのポイントは、1番は「電車」だったところが「タクシー」になっているところです。

管理人は2番を、1番に出てきた『君』の立場から歌ったものではないかと考えています。

「君は今もあの頃みたいにいるのだろうか

靴を片方茂みに落として探し回った

「何があろうと僕らはきっと上手くいく」と

無邪気に笑えた 日々を憶えている」

ここに登場する『君』とは、1番の自分のこと。

「靴を片方茂みに落として探し回った」というのは、

自分と君が分かり合えなかった日のことを指していて、

「「何があろうと僕らはきっと上手くいく」と 無邪気に笑えた」

というのは、仲直りをした日のことを指しているのではないでしょうか。

そうやって、これからもずっと『君』と過ごしていくと思っていた。

そんな気持ちが込められているように思えます。

米津玄師『灰色と青』2番サビ

次に2番のサビをみていきます。

「どれだけ無様に傷つこうとも

終わらない毎日に花束を

くだらない面影を追いかけて 今も歌う」

「どれだけ無様に傷つこうとも」という部分は、

大人になって、不条理な社会に揉まれて傷つく様を描いていて、

「終わらない毎日に花束を」という部分には、

それでも繰り返される毎日を耐えて過ごしている自分を褒めようという気持ちが込められているのではないでしょうか。

「くだらない面影を追いかけて 今も歌う」というフレーズには、

子どものころの『君』と過ごした毎日を、

今でも追いかけるかのように求めている。

そんな意味が込められているように感じます。

米津玄師『灰色と青』Cメロ

Cメロをみていきますね!

「朝日が昇る前の欠けた月を

君もどこかで見ているかな

何故か訳もないのに胸が痛くて

滲む顔 霞む色」

「朝日が昇る前の欠けた月を」というのは、

夜明け前のうっすらと見える月のことを指していて、

満月ではなく「欠けた月」というのが

いつもの日常を表しているようで、米津さんらしい表現ですよね〜。

「滲む顔 霞む色」というのは、

『君』と過ごしたころの思い出が、

今となってはもうぼんやりとしか思い出せない。

それくらいに時間が経ってしまったということを表現しているのではないでしょうか。

米津玄師『灰色と青』最後のサビ

最後のサビの、

「今更悲しいと叫ぶには

あまりに全てが遅すぎたかな

もう一度初めから歩けるなら

すれ違うように君に会いたい」

というフレーズでは、

『君』と離れて過ごすのは本当は悲しかったという本音を、

今認めてしまうにはすでに遅すぎるという後悔の念を感じます。

もしもはじめからやり直せるなら、

『君』に出会うことすら、すれ違うかのように日常の中に溶け込んだものでありたい。

衝撃的な出会いはいらないから、

ただ当たり前のように『君』と出会いたいという意味が込められているように感じます。

「朝日が昇る前の欠けた月を

君もどこかで見ているかな

何もないと笑える朝日がきて

始まりは青い色」

「何もないと笑える朝日がきて」というのは、

特別なことは何もなく、

ただ今日もまた同じ日々が繰り返されるけれど

それを笑って迎えられるほどの自分でありたい。

そんな前向きな気持ちを歌っているのではないでしょうか。

また、最後の「始まりは青い色」というフレーズには、

『君』と過ごした子ども時代を比喩していることに加え、

あの頃の純粋な気持ちのようにここからまた始めよう、という意味も込められていると感じます。

 

1番と2番をそれぞれ米津さんと菅田さんが歌っている、

切ないけれどどこか心温まる曲『灰色と青』

何かの始まりのとき、あるいは終わりのときに聴きたい曲ですね。

まとめ

  • 米津玄師『灰色と青』は「子どもから大人への道のり」についての歌だと推測!

以上でした〜!

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